8月29日(木)
先日、当山の所属する「神楽坂法縁」の集まりがあり、縁頭寺である「鎮護山善国寺」にお邪魔してまいりました。善國寺についてはこちら → 毘沙門天 善國寺HP
天正元年から慶長の頃(1573~1600)にかけて、宗門僧侶の教育機関として「檀林」という学校のようなものが各地に開設されました。下総飯高(千葉県匝瑳市飯高)をはじめ各地に開設された檀林は、元和年間頃(1620)から半世紀の間に関東・京の地に更に十数カ所が開設されました。代表的なものに、飯高・小西・中村の関東三大檀林があります。
やがて中村檀林が東谷(ひがしさく)と西谷(にしさく)に分けて互いに切磋琢磨し行学の増進を競いました。これに倣い諸檀林も両谷に分けて指南するようになり、これを谷指南(さくしなん)と称しました。そこで学んだ者たちは、その学徳を敬慕し、その名のもとに系統を形成し、それに属する者が寺の住職となり、弟子を育てる。そして、またその弟子が住職となり、弟子を育てるというように学系の一つとして定着していきました。この学系・団体を法縁・法類・法眷(はつけん)と呼ぶようになりました。
当山が所属する法縁がこの「神楽坂法縁」にあたり、善國寺はそのとりまとめをするお寺ということになります。
神楽坂法縁との関係はなんと住職の高祖父の代までさかのぼるとのことです。
また当山本堂前に掲げられた扁額「長秋山」はその縁頭寺である善國寺の先代住職に揮毫してもらったものとのことで、法縁としての関係性が表れていますね。
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